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対人関係

こんなときどうする?
【生き抜くためにどうすればいいのか】

本記事は対人関係に悩みを抱える人が現状を見つめなおし、対人関係の課題に取り組むきっかけをつかむことを目的にお送りしています。
現場の看護師から受ける相談や、私が経験した事例をもとに一緒に考えていきます。

今回はとてもデリケートなテーマを取り上げます。「生き抜くためにどうすればいいのか」です。

※注意 

この記事では自死について触れますので、今精神的に不安定な方や、身近で自死があった方などは読まないことを強くお勧めします。

一方、生き抜くためには死ぬことから目をそらすわけにはいきません。生死について考えるときには精神的に安定しており、また親身になって話を聞いてくれる人がそばにいるとき、専門家の支援を受ける体制が整っているときにしてください。私もそうしています。

生き抜くために伝えたい

生き抜く、そして自死について私のコラムで書くことなのか悩みました。ただ今、私は書かずにはいられない気持ちです。

それは何故か。最近また、親族を自死で失ったからです。「また」と書くのにも意味があります。一度や二度ではないからです。今回は親族でしたが、私は身近な人を自死で何度も亡くしています。覚えているのは中学生の時がはじめですが、高校生・看護学生時代、そして就職後、数年に一度身近な人の自死を経験しています。果たしてこれが多いのか否かは私にはわかりません。

自死以外でも当然、病気や事故で身近な人を失っています。その度、人の生死について深く考えてきました。私が看護師を志し、仕事を続けているのも、心理学や哲学に関心があるのも決して無関係ではありません。生き抜く人、そして残された人の力になりたいと思うのです。

自死を考える

看護師になり、人を助ける力になりたいと働いてきました。ただもちろん、助けたくても助からない命はたくさんあります。その度、生死を考え続けています。

さて、そこでなぜ生死ではなく「自死」を考えたいのか。それは、自死には特別な意味があると考えるからです。私は精神科医でもなければ、臨床心理士でもありません。エビデンスのある理論は持ちませんし、「自死」を科学的に論ずることもできません。

当然ですが、亡くなった方から話を聞くこともできません。直前までいつもと変わらない生活をしていたかたが、突然自死を選ぶのです。「死にたい」と周囲に相談できるひとは、あまりいないのではないか、私はそう感じています。それ故、その人の立場になって考えるほかないと思います。

自死を選んでいる

なぜ人は自死を選ぶのか、私がたどり着いた一つの考えがあります。人は自死してしまったのではありません。自死をあくまで選んでいると考えます。それは、「生きていることを確かめるため」です。これから死を選ぶ人が、「生きることを確かめる」のは矛盾しているように聞こえるかもしれません。私は、矛盾していないと考えます。

自死するとは、生きることを自分で終わらせることです。心や体の健康が苛まれ、生命力が枯渇していき、さらに誰の助けも借りられない、そうであれば生きることに絶望してしまう気持ちは理解できます。決して一言では語れませんが、死を選ぶ気持ちは多くの方が想像できるのではないでしょうか。

心・体・人が自分の思うとおりにならない、そればかりか何もかもが自分で選べなくなるのです。こうして絶望を体験し、自分には何もできないと感じるのです。そして最後に自分で選べるのが、自分の生を終わらせることなのです。最後に残された主体性を行使する、その方法が自死であり「生きることを確かめる」行為なのではないかと考えます。

自死も対人関係の手段

もう一つ、付け加えると「他者に知らしめる」意味合いもあると思います。自分はこんなに辛く苦しい思いをしている。それなのに誰も手を差し伸べてくれない。それどころか、辛く苦しい自分の傷に塩を塗るような人もいる。ましてそれが肉親である。最も助けてほしい相手が、自分を苦しめ続ける。しかし、それを認めるわけにはいかない。

肉親は、本当は愛にあふれているはずだ。でも、いつまで経っても愛は与えられない。こうして生命力は枯渇し、生き続けることが困難になる。自分を愛してくれなかった人が憎い。こんな自分にした人が憎い。それでもその人を責めることもできない。

最後にできるのは、自分を傷つける究極の形で、自死を選ぶのです。身近な人、まして肉親が自死で無くなれば、周囲の人は深く傷つきます。自分に責任があったのではないかと考えます。それを予想し「他者に知らしめる」ため、自死を選ぶのではないかと私は考えます。

一言で言えば、「復讐」です。復讐は、人が人に行うものです。つまり、自死も対人関係を持ちたい人がとる方法の一つとも言えるのです。人と繋がりたいのです。ただ、健全な方法ではないと指摘させていただきます。

自死を防ぎたい

人がなぜ自死を選ぶのか、私の考えを書いてきました。自死した人とその関係者を責めることは誰にもできません。自死を選ばなければならなかった、その心情は想像を絶するものです。できるだけその人の気持ちを推し量るよう努めても、全く同じ経験はできません。ただ自死を防ぐためには、考え続けていかなければなりません。

私は自死する人の心情が少し理解できます。それでも、自死を選ぶことに賛成できません。

人には生きる権利、死ぬ権利があるという意見も理解できます。ただ、それでも生き抜かなければならないと考えます。いまだ結論は出ませんが、「人は必ず死ぬのだから、生きればいい」と思うのです。

私が過去経験した身近な人の死、そして看護師という仕事で経験する死、いずれもきっと避けられなかった死なのです。死は高齢者のみに訪れるものではありません。子どもだろうが若かろうが、突然訪れます。生きたかったのに、生きることができなかった命があるのを私は知っています。きっと、あなたも一人は知っているはずです。

これからどうするか

そうであるなら、私たちは生き抜いてみてはどうかと思います。

私が今まで、自死を微塵も考えなかったといえば嘘になります。選択肢の一つにあった時期もあります。

まして、身近な人が自死を選んだ経験は予想外の悪い影響を及ぼしていることを知りました。「あの人も自死で楽になったのなら、自分も選んでいいかもしれない」と思うときがあるのです。そう、身近な人の自死は、他者に自死の選択肢をしらずしらずのうちに与えたことにもなるのです。

だから自死には賛成できません。私がそれでも自死を選ばずに、生きたことで今があります。生きたことで経験できる喜びは、かけがえのないものです。それは対人関係を持つことで得られる喜びです。

私たちにできることはある

自死という不器用な方法をとらなくても、適切な方法で対人関係は持てるはずです。人はそんなに脆弱な存在ではないと信じています。できれば自死ではない健全な方法で、人と繋がっていきたいのです。

辛いとき、苦しいときには自分で発信するのです。私たちは、「心が辛い。話を聞いてほしい」と言えます。辛そうな人がそばにいるなら、「しんどそうに見えるけど、大丈夫?」と声をかけられます。ひとりひとりの力は小さいのかもしれません。でも、あなたの小さな勇気が今もだれかを助けているのです。そうある社会を目指したいのです。

おわりに

私が目指す社会は、到達困難な理想かもしれません。それでもあきらめず、行動したいのです。大切な人を自死で亡くして悲しむ人が、一人でも減ってほしい。そう私は思います。

あなたはどう考えますか。

この記事に登場する人物・事例・団体などはすべて架空のものです。また事例についてもすべてフィクションであり、プライバシーに配慮して、実際の事例をもとに内容を構成したものを掲載しています。この記事は筆者個人の研究・実践及び信条に基づくものであり、筆者の所属施設・関連施設とは一切の関係はありません。

ABOUT ME
小林 雄一
脳卒中リハビリテーション看護認定看護師「看護師失格?」著者 看護師の育成に取り組むと同時に、看護師の対人関係能力向上に貢献するため、面談・セミナー・執筆活動を行っています。