本記事は対人関係に悩みを抱える人が現状を見つめなおし、対人関係の課題に取り組むきっかけをつかむことを目的にお送りしています。

現場の看護師から受ける相談や、私が経験した事例をもとに一緒に考えていきます。
前回記事の対人関係についてリクエスト頂いたので、関連エピソードをお届けします。

今回のテーマは、「自分の良さ」を知るです。

思わぬ指摘

「小林さんはほんとうにバイクを大切に乗っているね」


ある日の夕暮れ時、いつものようにオイル交換を終え、工場の片隅で店主さんと他愛のない世間話をしていたときのことでした。作業服の袖で額の汗を拭いながら、店主さんが何気なく、しかし真っ直ぐな目で私にそう告げたのです。


その瞬間、私は本当にハトが豆鉄砲を食らったかのように呆然としてしまい、返す言葉が見つかりませんでした。鼓膜を震わせたその言葉が、あまりにも自分の自己認識とかけ離れていたからです。


なぜなら私自身は、自分のことを特別な乗り手だとは微塵も思っていなかったからです。高級なコーティング剤で毎週のように車体を磨き上げているわけでもないし、床の間に飾るようにして雨の日は絶対に走らない、といった極端な愛で方をしているわけでもない。ただごく普通に扱い、ごく普通に日々を走り、汚れたら洗う。自分にとっては当たり前すぎる日常の風景でした。


「一体、自分のどこを見てそんなことを言うのだろう?」 そのときは正直、職人の気まぐれなお世辞のようにも思え、どこか狐につままれたような気分のまま店を後にしたことを覚えています。

しかし、不慮の怪我によってお店のシャッターが閉まってしまった今、店主さんが私のために仕立ててくれた二台の愛車をガレージで眺めながら、私はあの言葉の持つ本当の凄みと、胸が熱くなるような温かさに、遅まきながら気づかされているのです。


100年の歴史を受け継いだ名職人の眼は、バイクという物言わぬ機械の傷や消耗の向こう側に隠された、私の生き方そのものを、すべて静かに見抜いていました。

語らずとも、機械がすべてを物語っていた

店主さんが見ていたのは、表面的なピカピカさではありませんでした。自分で努力して手に入れ、自らの生活の足として、また人生の相棒として、日々しっかりと使い込んでいること。そして、着実に走行距離を重ねながらも、決して機械を酷使せず、定期的なオイル交換には必ずお店に現れ、毎月欠かさずタイヤの空気圧調整にやってくるという、私の一連の「営み」そのものでした。


店主さんは、私のバイクの「減り方」や「汚れ方」のディテールから、私の後ろ姿を見ていたのです。
持ち込まれたバイクのタイヤを見れば、そこには急ブレーキをかけたり、乱暴にコーナリングをしたりしてゴムを無理に偏摩耗させたような荒っぽい痕跡は一切ありませんでした。タイヤの真ん中だけが極端に減ることもなく、端まで全体がバランスよく、自然にすり減っている。それは、私が公道という予測不能な空間において、常に先を見越し、決して無理な加速や無謀なブレーキングをせず、安全に、そして丁寧にバイクの命を扱っているという何よりの証明でした。


さらに店主さんの眼は、もっと深い「生活の匂い」まで感じ取っていました。 タイヤの減り方のわずかなバランスやサスペンションの馴染み方から、私が家族を後ろに乗せる二人乗り(タンデム)を中心に走っていることを見抜いていたのです。


大切な家族の命を背負っているからこそ、より慎重に、より優しくスロットルを開け、段差では車体を労わるように速度を落とす。オイルの劣化具合を見れば、エンジンをいじめるような乱暴な回し方をしていないことも一目瞭然でした。


私のバイクには、確かに少しずつ小さな傷が増え、年数に応じた経年劣化も見られました。しかし、いつも丁寧に洗車され、注油すべき場所にはきちんと油が回り、古さの中にも凛とした美しさが保たれている。


18歳のときに尾道の看護学校へ持ち込んだ原付スクーターの時も、初めて手に入れた250ccの中型バイクの時も、15年のブランクを経て再びハンドルを握った125ccの時も、そして今の大型バイクも。


私がいつ、どんなときでも変わらずに続けてきた「当たり前の扱い方」のなかに、私という人間のバイクへの、そして命や家族への誠実さがすべて現れていることを、店主さんは29年間、何も言わずにずっと見つめ続けてくれていたのです。

「自分には価値がある」と思わせてくれる他者の存在

対人関係の悩みや、日々の仕事のなかで、私たちはしばしば「自分はこれでいいのだろうか」「自分のやっていることには、どんな意味があるのだろうか」と、目に見えない不安に駆られることがあります。アドラー心理学では、人間が幸福に生きるための普遍的な感覚として、「私は共同体にとって有益である」「自分には価値がある」と思えることの重要性を説きます。


しかし、私たちは自分自身の後ろ姿を、自分ひとりの眼で見ることはできません。自分がごく当たり前にやっている良いことや、自分の内側にある本当の美徳には、自分自身ではどうしても気づけないようにできているのです。意識して行う善行には気づけても、「無意識の誠実さ」は自分にとっては空気のように当たり前すぎて、価値として認識できないからです。


だからこそ、私たちは人生において「他者のまなざし」を必要とします。


店主さんは、私を「いくら売上をもたらしてくれるか」「どれだけ高いバイクを買ってくれるか」という損得の物差しで測るようなことは決してしませんでした。一人の対等な人間として私を信頼し、私がバイクを持ってお店にやってくるたび、楽しそうにツーリングの思い出を語り、家族との他愛のないエピソードを話す、その私の「人生の歩み」そのものを、29年間ずっと温かく受容し続けてくれていたのです。


自分が全く無自覚だった「自分の誠実さ」を、誰かがずっと傍で見つめていてくれて、それをある日、最高のタイミングで言葉にして手渡してくれる。これほど人として救われ、進むべき道に「勇気」をもらえる瞬間が、他にあるでしょうか。


「小林さんはほんとうにバイクを大切に乗っているね」

あの夕暮れ時の整備工場で交わされた何気ない一言は、店主さんから私への、最高のはなむけであり、「お前なら、どんな道を走っても大丈夫だ」という全幅の信頼のバトンだったのです。

受け取った眼差しを、今度は私が誰かへ

今、私のガレージには、あの時に店主さんが私の生活に合わせて手配してくれた125ccのバイクと、私の背中を押して挑戦させてくれた大型バイクの二台が並んでいます。大きなパワーで遠くの世界へ連れて行ってくれる大型バイクも、トコトコと軽快に街を駆け抜ける125ccのバイクも、私にとってはどちらも甲乙つけがたい、等しく最高に愛おしい相棒です。


相変わらずお店のシャッターは閉まったままですが、私の二台の愛車のタイヤの減り方も、静かにアイドリングするエンジンの音も、店主さんが認めてくれた「小林らしい丁寧さ」を今もそのまま宿しています。


物があふれ、何でも簡単に効率よく消費され、使い捨てられる現代だからこそ、私たちはもう一度、目の前にある物、そして目の前にいる人との「向き合い方」を問い直す必要があるのかもしれません。傷つくのを恐れて箱に仕舞い込むのではなく、共に生き、共に消耗し、傷つきながらも、手入れを怠らずに敬意を払い続けること。それこそが、物や人と向き合うということの本質です。


私が看護師として医療の現場に立ち、日々患者さんや仲間のスタッフと向き合うとき、私はいつも店主さんのあの眼差しを思い出します。 相手自身が気づいていない素敵なところ、日々の暮らしのなかで黙々と積み重ねている誠実さを、今度は私がプロの眼で見つけ出し、言葉にしてそっと手渡していく番なのだと。


店主さん、あなたが認めてくれた私の「乗り方」は、そのまま私の「生き方」として、これからもこの人生の道路の上に続いていきます。


先日、あなたへの感謝を綴ったお手紙を、無事にあの工場のポストへ投函してきました。いつかまた、元気に回復されたあなたと向かい合い、二台の愛車の走行距離のメーターを見せながら、「相変わらず大切に乗っていますよ」と笑顔でお話しできる日を楽しみに、私は私の今を生きていきます。


どうか今は一切の肩の荷を下ろして、ご無理をなさらず、お体を一番に大切にしてください。あなたのくれた言葉は、今も私の愛車たちの中で、そして私の生き方の中で、確かに走り続けています。

「自分の良さ」を知る

あなたはどう考えますか。

この記事に登場する人物・事例・団体などはすべて架空のものです。筆者の所属施設・関連施設とは一切の関係はありません。プライバシーに配慮して、実際の事例をもとに内容を構成したものを掲載しています。

ABOUT ME
小林 雄一
脳卒中リハビリテーション看護認定看護師「看護師失格?」著者 看護師の育成に取り組むと同時に、看護師の対人関係能力向上に貢献するため、面談・セミナー・執筆活動を行っています。